聞き取り難く末尾切れ

昭和57年05月18日 月次祭



 もう朝の福岡の西原さんのお取次を、さきほど頂いたんですけれども、親先生今日はもう嬉しゅうして、有難うして有難うして、お参りが出来ましたとこう言われる。何がそんなに、嬉しゅうて有難かったかと。今日はまぁいうならば、事柄の中にまぁ理不尽な事があった。まぁ普通で言うなら腹が立つと言った様な事があった。所がはぁここが日頃頂いておる馬鹿と阿呆で受けていくんだなぁと思うたら。
 もう途端に有難うなってこうしてお参りさせて頂く道中も、もうとにかく有難い有難い一杯で、ご参拝が出来たと言われるんです。どげなことでしょうかね。今日は丁度朝の奉仕の時でしたが、総代の大和さんが、改まってあのまぁ安らわしてご夫婦で日参があります。そして毎日ここのこの広い、石庭の御用を一人で一手に受けておられます。毎日綺麗に箒目が立っておるのは、大和さんの御用なんですけれども。
 今日はその御用をさせて頂きながら、もう有難うして有難うして、何か(こうなったんだろうかと?)思わせて頂いたら、もうあれもこれもがおかげだなと思う時に、まぁこの有難いという心がどこから来たって、どこに去って行くのであろう。この信心の喜びいわゆる信心を頂かなければ、行じなければ頂けない喜び、ね。それこそ神様が下さるのであり、天から来たって地に帰って行くとでも言うでしょうか。神様から出る喜びが受け止めて、その喜びがまた神様に帰って行く。
 まぁ感動させて頂いた事でございましたが、今日は私が大変な失敗をしました。今日もある方がもう長く、お母さんが具合が悪く、病院に入院しておられます。所がもうとにかくこうして目が薄いし、耳が遠いもんですから、お届けを頂き間違えたんです。それでも神様に頂いた事がございましたから、おかげ頂かれたのぉと。告別式は何時ですかち言うたらいえまだ、死んじゃおりまっせんち。(笑)
 それこそ汗の出るような話なんですけれども。ね。けれども私は丁度その事をお届けさせて頂いたら、言うなら渡りに船とでも言うのでしょうか。一艘の船がすうっと岸辺に着いた所を頂いたんです。ですから私は、は、お迎えが来たんだなぁと。しかも若い時代の信心のおかげで、徳の船に乗ってあの世行きが出来るなぁと、こう思ったもんですから、告別式は何時ですかち言うた。まだ死んだつっじゃなかち。
 けれどもね私は思うです。信心させて頂いてお徳を受けて本当に、お徳の船にお迎いを受けてのお国替えであり、お国替えでなからなければならんと思います。信心をいうならばさせて頂かなければ、頂けないおかげ。信心をさせて頂かなければ、味わう事の出来ない喜び。いわゆるここが日頃頂いておる教えいうならば、ここが馬鹿と阿呆になる所だと、こう受けた所に、腹立ちもなからなければ不足もない。
 そしてその反対にどうも仕方がないような信心の喜びを感じて、ご参拝が出来たとこう言われる。この信心の喜びというものが、生き生きとしてまいりませんとね。いかにご理念を頂いても、分かっておっても、詳しくなっても、ね。詳しくなっただけではいけんです。そのご理念を私どもの信心の喜びを持って頂いて行く時に、始めて例えて言うならば、先だって大分支部の大祭の時に来られたことでしたけれども。
 私の控えにまぁ見事なお花が、まぁ(いろいろ?)な花をとりあわせて、まぁ投げ入れと言うでしょうかね。見事な花が入れてあった。花の材料はいかに沢山あっても、それを手立てを知らない人が、もしただ花が綺麗だけでガバットこう、それに入れただけであったらどうだろう。返って見苦しいことになりはしませんでしょうか。というてどんなに、ほんなら、池坊なら池坊のご流儀で、約束に基づいたお花が入れられたに致しましても。その花がもし枯れたり、しおれておったらどうでしょう。
 如何にご理念が素晴らしいというても、そのご理念を頂きこなすのは、私どもの信心の喜びでもって生けあげて、これはまた限りがない。ね。お花の稽古なら稽古をする人が、稽古というのが、これで良いと言う事はない。限りないもう精進により、限りないいうならばそれこそ、人の心を打つような花にも、入れあがて行く事が出来ますでしょうように、ね。信心の喜びを頂くためには、まずははぁここは合楽理念をもって、ここは日頃頂いておる御教えに徹して頂こうという。
 その頂き方が出来る時にこれはもう、あなたの喜びではない。神様が喜んで下さる。その喜びがここへ響いてくるんです。(田中?)さんの、まぁ今日の御用の中にです。どこから湧いてくるか分からん感動。しかも、そこには、また改まってお礼を申し上げなければおれないほどしの感動。これはどこから来たってどこへ去って行くのか。神様は心からそして神様の心にまた帰って行く。これが徳にならないはずがない。
 そういう心でそれこそ自由無限自由自在な、いうならばお花ならお花が生けあげられるようになる時に、私どもの願いであり、神様の願いである所の、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰せられるようなおかげが頂ける。信心をせずしておかげが頂ける。信心というのは迷うたとか、拝むとかお取次を頂いたというのじゃなくてね。いわゆる信心です。神様を信ずる心です。いうなら真心(まごころ)です。
 もうよ神心です。そういう心をもって、私どもが日常生活のすべての事に当たらせて頂くおかげを頂いたら、ね。もう本当に素晴らしいおかげの世界に住む事が出来るでしょう。これは昨日の朝のご理解でしたが、前日は大分支部の十六日ですね、ご大祭でございました。それから南区内の教会のご大祭でした。若先生が南区の方へ参りました。大分支部のご大祭に、三番目の幹三郎がおかげを頂きました。
 丁度同じ時刻に、久留米の高芝さん所の霊祭、三十日祭がございましたから、光昭がおかげを頂きました。その日は丁度箱崎教会の七十年という記念のご大祭が奉仕される事になってましたけれども、私は行けませんから、せめて子供の誰かと思うておりましたが、みんなその栄四郎は丁度、友人の結婚式でその日は出ておりました。それで私は娘の直子を、あんたが私の代わりにお参りしてくれないかと言う事で、ご参拝のおかげを頂かせました。というてもう(ふるか?)は日田の方の楽の御用を頂いて。
 私のまぁ運転のおかげを頂いた。子供たちがそれぞれにね。私はそん時思いました。皆さんも感じられる事はないでしょうか。鳥栖なんかの駅が見えた時には、どれだけあるか分からんレールが一杯。これでよう脱線せん事だと思うですね。もう沢山なレールがある中に、それこそ一糸乱れず衝突する事もなく、それがこう行き通うておると言う事。ほんならその十六日の日じゃありませんけれども、はぁ困ったなぁ、行かじゃんばってん行くかれんたい、不義理な事になると言う事ではなくて、ね。
 本当にこりゃ何時もの事ながら、神様のお計らいの中にあるおかげを、神様にお礼を申させて頂いておりましたら。もうとてつもない大きな字でね。薫と教えを頂くんです。これ、ご理解に頂きます。それがもうとてつもない大きな薫です。草冠に重い重いという字を書いて、点々点々。点々点は心ということです。自然を重んずる心。私は昨日の朝のご理解に、神は平等におかげを授けるが、受けものが悪ければ、おかげが漏るぞという御教えがございますね、御理解が。ね。
 最後に神の徳を受けるためには、ままよという心を出さなければならない。ままよとは死んでもままよのことだと。ね。成り行きを尊ぶ、成り行きを大事にするという中に、段々それが自分の血に肉に、自分のものになってくる。けれどもたまにはねまぁ今日の、福岡のみなさんの前ですけれども、心が馬鹿と阿呆にはなれないような時があるけれども。そこを本気で馬鹿と阿呆にならせて頂いたら、もう喜びが帰ってくる。
 いやこれがもっともっと、それこそ命がけでそれこそも、ままよままよとは死んでもままよのことぞと言うような心で受けなければならないような事がある。それを私の過去の信心から思うてみる時に、はぁあれがままよという心だなぁと。あれが死んでもままよという心だなぁと言ったような、心の状態で受けぬかせて頂いて、今日のいうならば合楽の、薫るようなおかげが頂けておると言う事であります。もう薫るようなおかげなんです。ですからね、受けものが悪いが悪いからおかげが漏ると。
 そのおかげを受けるものを作るためには、色々な信心がありましょう。ね。あぁ水をかぶったり、火の行の修業をさせて貰うたり、ね。神様にごうぐるようにして、その夜を徹してご祈念をしたり、様々、まぁ過去において、あらゆる宗教行動家だけじゃないけれども、神様と首っ引きで一生懸命願い、まぁいうなら神様を拝み倒すような信心によって、おかげを頂くというおかげではなくて。
 まぁいうならばね神様の御働き、その物を自分の心ひとつにあれが親馬鹿と阿呆で、ある場合は嬉しゅうして、有難うしてという心で受けていく。ね。ここはもう神様にお任せしきったのだから、もうそれこそ死ぬまいと思う心が疲れるのである。もうままよという心になったら、心も楽になったらその楽になった心に、おかげが受けられる。そういう信心が積もり積もって徳にもなり。いうならば(薫る?)ですね。草冠と重いと草冠という事は、自然の働きという意味でしょう。
 自然という事。自然の働きを重んずる心です。そういう信心が身に付いて行く時に、薫るようなおかげが約束される。これは私だけではない。合楽だけではないです。ね。皆さんが一人一人が頂けれるおかげなんです。それが愈々教えに徹してみる教えを行ずる。ただ一言いうならはぁここはいっちょ、馬鹿と阿呆でと受けられて、まぁそれから数時間ここへ参ってくる間、喜びが絶えなかった。だからその喜びだけではない。その喜びをもってご理念の実験実証をさせて頂く。
今日梅山先生が前講を勤めておりましたが、はぁもうこの人は金光様の教え、もう布教に出ても良かな。これだけの話が出来るこれだけの内容をもってるんだから。ね。そう思いました。ですからあのお話がそのまま自分の血に肉になった時に、何時どこにいうならば、布教に出ても人は必ず助かるでしょう。自分のものになった時。ね。分かっただけじゃいかんのです。愈々の場合には馬鹿と阿呆で、愈々の場合にはそれこそ、ままよままよは、それこそ死んでもままよの事と言う様な信心が出来て。
 それを体得させて貰うて、そこに自分の助かりがあり、自他ともに助かって行く手立てがついてくる。今朝の御理解にこの方の道は、傘一本で開く事が出来るという御教えとても、傘一本というのは安心だと。安心のおかげを頂いてと言う事を信心の目当て、目標とさせて貰う。今日はあの傘一本と言う事は、神様を信じて疑わない確信の事だと頂きました。神様を信じて疑わない、その心こそが確信なのである。そのいうなら傘一本をもって出るならば、必ず人は助かるでしょう。
 自他ともに助かっていける。というても神様のおかげを燃やすことなく受けとめるためには、愈々豊かに限りなく大きゅうなって行こうという精進と、愈々成り行きを尊ばせて貰い。どの様な場合であっても、それは馬鹿と阿呆でここは死んでもままよと言った様な心で受け止められるような信心に、いうならば神様が下さるおかげを、水も漏らさんおかげとして受けとめる事が出来るでしょう。
 段々信心が進んで参りますとね。初め(カラスのごとないですけれども?)、少し信心が分かってくると、矢張り信心は日々の改まりが第一じゃ、磨きに改まれよと教えを頂くのです。今朝からの御理解にこれは合楽の信心に、一つの転機をもたらすようなご理解だなと思うて、皆さんに今日聞いて頂いたんですけれども。例えばお酒の好きな人があります。いや好きだけじゃなくて、もう酔うたら人に迷惑をかけるという人があります。泣いたり笑うたりぐだまくのはまぁいいですけれどもね。
 (おもいじょうご?)ち言うのがあります。ほりゃもう暴力を振るうんですね。酒にはそういう三つのあれがあるんですよ。はぁもうちょっと飲むと、もう泣きだすとは困りますねあれは。ほんに困るです。四方に立ってるもんが。有難かと思うたら有難うしてこたえんち言うて泣くもんです。笑い上戸泣き上戸、おごり上戸というのがあるです。だから人に迷惑をかけるから、自分が素面になると分からんわけです。あげな様な酒は慎まないかんけんなぁと言うて。
 所が(みにいっかいも?)すきで中毒していると言う事になると、止めるに止められんごつなってくる。そこでです何べんも思い立ったけれども止められん。こりゃみなさん、酒だけの事じゃないですよ。様々なおかげの障害になるような、まぁいうなら巡りというても良いでしょう。様々なこれこそ、止め置かなければおかげは頂けんと思うような事があるんですけれども。今朝から頂くきましたもくもくと断酒の心菊作りと。もくもくとしてです断酒するお酒を断った。
 その代わりにここに喜びの花を咲かせて、菊作りに専念するけれども。そういうおかげで徳を貰いよった所が、ある誘惑があったとする。ね。はぁまた失敗した。また失敗した。ご神前に出てもうお詫びのしようがない。何回もですから。涙ながらにお詫びをさせて頂くだけなら良いけれども。これは私ではおかげば受けられんと言った様な心が、募ってくるんです。信心が段々分かってくると。
 これが私はある昔まぁ偉い先生でしたが、お話を頂いた時にある願行を始められた。所がもう満願というちょっと前に失敗をして、その願行が崩れてしもうた。その事を私に話して下さったんですけれども。大坪さんこの時には私がね、この願行を貫いとったら、今時はお徳を受け取ったばってんなぁ。聞きゃしみじみ実感されました。ね。そう言う様なとこが、段々信心が進んでくる所にです。
 けれども何時まで経ってもその事が心にあって本当にあの時、あの修行をやり抜いておったら、あんときに酒を絶っておったら。ここが改めねばならんと言う事を改め抜いとったら、今ではお徳を受けたものにと言った様な事が普通でしたけれども。今朝のご理解を頂くとそう言う事ではない。改められない改まろうといわゆる断酒の心にもなるけれども絶てない。そういう時にですその事は棚に上げておけというのです。
 今日私はご神前で時計がね、この長針がカチカチカチカチこう動いておる。短針の方はね、ちょっと見ただけでは動いているか、動いていないか分からないでしょう。だから分からないのはそのままにしておいて、いうならば日々の修行ですね。いうなら為そうと思えばなせれる修行。ね。朝起きの出来ん人がいうならば朝起きを初めるとする。ね。晩も早く休ませて貰う。そしてとかね日参を始めようと思うたら、なら日参を本気でやろうと思うたら出来る。
 いうならば為そうと思えばできる事を、疎かにしてただこれが癌だから、ここは改めなければ、ここを切って除かなければと言うておって、それが出来ないと落ち込んでしまう。もう私は神さまにこういう願を立ててやっておるけれども、何時も失敗しておる。私のようなもんじゃおかげは頂けんと.いかに詫びても詫びてもそれは、お詫びの中に落ち込んでしまって、おかげにならんです。だからもう本当にそれをそのままほっておいて良いと言う事ではないけれども、ね。
 本気で為そうと思えば出来れる修行に、本気で忠実に実意丁寧に取り組んでいくならば。いうなら分秒をこう数えていく長針のように、ね。これが一回りする時にはその、動きよるか動きよらないか分からない短針も、いつの間にか一時なら二時になっとるものが三時になっておるようなおかげを受け。私はそれを頂いてね、自分の事に思うてみたんです。私もそうです出来ない。もう本当泣きながら考え( ? )しとるです。(   ?   )これじゃおかげ頂かれんと言った様な落ち込んだ心から、ね。
 私が出来ない。いうならばお詫びのしるしにと言ったような気持ち。当時はそんな思いしておりました。に、ほんならこの事は為そうと思えばなせれる修行に、本気で取り組んで分秒の所を確実におかげを頂いておりましたら、出来ないと思うておった、いうならおかげが。動いてないかのように見えておった短針が動いておかげを頂いて、今日いうならば本当に改まると言う事は、こんなにも楽な事であろうかというおかげを受けておるんです。皆さんも信心が進んでこられたら。
 まだ日々改まると仰るから改まると言う事にも、やっぱり取り組まなければいけません。そして自分で自分のそれこそ鏡を見てみると。その見苦しい所やらいやらしい所が出てくるわけ。だからこれを改まろうと発心して、改まれる事改まろうと思うけれども、中毒になっておるようなものは中々もって改まれない。もう食い込んでしまってる。ですからそういう時にですはぁ自分なもう駄目だと。自分はもうこの修行を貫く事の出来ないくらいな自分だからと言うて、出来る修行まで疎かにすると言うのです。
 今日は研修の時に、みんなこの事を一生懸命研修させて貰いました。それが塗板に書いてありますから、一つ読むなり写すなりしていって下さいですが。どんなに一人一人今日の御理解のそれを聞かせて貰うた。今日の御理解頂いて一番感じた所は、どう言う所かと私が徹先生のために、今日の御理解を感じるのと言うたら、こう言う事を言うんです。僕は十日前から、この事を思い続けとりましたと言うんです。はぁほんなら今日は僕のために、今日の御理解があったごたるなぁというて話した事でした。
 この人は中々改まらんならん所があるけれども、改まりが出来ん。出来んからかどうか分からんけれども、やらなければならない。やろうと思えばできる修行をおろそかにする。ね。だからこう言う事ではいけないなと、ここ十日間余りその事だけを思い続けて参りましたとこう言うんです。で今日はっきり答えが出てきたから。成程是なら改まりが出来ないのだけれども、本気でほんなら信心しよう。朝のご祈念にも出てくる。御用もさせて貰う。これならばやろうと思えばできる。
 所が一番眼目の所が、やって貰っても失敗するもんだからもう自分な、色々と駄目であると言うような思い方に落ち込んでしまう。その落ち込んでおる、これではいけんと思うた所がほんなら、十日間その事を思い続けてきたとこう言う。はぁおかげ頂いたね。今日はあんたがための御理解のごたったねと言うて、まぁ申しました事ですけれども、これは徹先生だけの事ではありません。ね。
 本当にその事は置いておいて、そしていうならばこれだけはという信心を、愈々確実にそれこそ時計の針の分秒間違いなしに進んで行く様な信心をです。やろうと思えば出来る修行に取り組めというのが、今朝からの御理解でしたが。そこから例えば私はね、思いもかけない心の状態が開けてくると思うんです。今日大和さんが感じられたように、それこそここは馬鹿と阿呆でと思うて、その事をやり抜かせて頂いたら嬉しゅうして、有難うしてと言う様なそういう心です。
 そういう心が段々育って参ります時に、始めて出来なかったいうならば改まり、その喜びをもってする事によってです。出来なかった御用がいつの間にか出来てくるのに、これは私の体験からも言われる事です。だから私も出来んで磨かにゃというて、ほんなら日々の私がまぁ御用を疎かにすると言った様な事では、是はやっぱり一生この神に付いて回ったでしょう。所がね、為そうと思えばなせれる、いうならば肝心な修行いわゆる、信心修行が出来てくる。
 そこにですいうならば、神様が下さる喜びによることが出来る。その神様が下さる喜びをもってすると、出来なかった事が出来るのにまた驚くほどです。あれほど好きであった酒がもう飲みたくなくなった。と言った様な事になってくるわけです。ね。これが実は神様の特別な、いうなら御神徳の働きによって、そういうおかげも受けられる。それを今まで過去の人達の話を聞いて、まぁ偉いその先生の話じゃないけれども、もうその時点でやんがて七十という先生でしたが。
 お若い時にね願行を断ったけれども、どうしても改まりが出来なかった。もう満願という時に失敗をした。本当に述懐しながら話された。大坪さん、あの時にあの修行ば、私がやり抜いておったら、今頃はお徳を受けておったばってんなぁと言うて、まぁ恐らく亡くなられるまで、それを思い続けられた事でしょう。そういう風な思い方の中にはお徳はないです。ね。はぁあん時に止めとったらお徳を受け取ったろう。失敗したから自分なもうお徳を受けられんとこうなってしまったわけです。
 どうぞひとつ短針の動き、動いているか動いていないか、ちょっと見りゃ分からんようですけれども、分秒のこれが確実に回っておればね。いつの間にか短針がやっぱり、一時間二時間と変わってくる。私は信心というものはそういうねいうならば、何時も堂々巡りではなくて、自分の心に今までは感じていなかった喜びが頂けれる。楽しみとか喜びとかというものがです。頂ける手立てを頂かなければ、信心が愈々有難いものであると言う事になってこない。ね。
 愈々もって昨日一昨日頂きますように、神様は平等におかげを下さる。大坪総一郎であろうが皆さんであろうが、同じおかげを受けられる。ほんなら私が受けてきたものは、人の真似の出来ん様な修行をしたという訳でもないけれども。ただそれこそまぁ偉大な家運という字を自分の身につけて行った。成り行きを愈々尊び有難く受けて行った。ね。ためには、いうならば血の涙の出るような事もあったけれども、ここはもう死んだ気でと言う様な気で受けてきた。ここが馬鹿と阿呆と思うて受けてきた。
そしたら今も申しますように、全ての事がね、それこそその十六日の日のまぁ普通で言うならば、もう今日はもうあっちこっちに手分けして行って、もうてんやわやじゃったと。そのてんやわんやと言う事がないのです。そりゃ鳥栖の構内のあのレールが、一糸乱れず汽車が行ったり来たりしておるように、軌道に乗ったいうならば信心とは、そういう信心を言うのだ。そういう信心を、お互い稽古しておるのだ。だからここが自分が出来ん所、改まれんとこと言う事はです。ね。
 改めてそれはこれ以上有難い事はないけれども。それは置いておいていうならば、出来る事に本気になる。所が往々にして出来ないと、はぁ自分は駄目だと落ち込んで、出来る事まで、おろそかにすると言った様な事では、これはもう一生つまらない信心で終わってしまわなければなりません。今日は一つ水も漏らさん様なおかげ、薫るようなおかげ、それを私どもがそのような角度からの修行に帰らせて頂いて、出来ない修行は置いておいて、出来る修行からかつがつこれだけはやると思えば出来ると言う事を、徹してやっていく信心から、そこに期せずして頂け
   (途中切れ)